北京
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「新中國70週年を迎えて」のシリーズ・インタビュー、今週から2週にわたって経済と金融のプロ・徳地立人さんにお話を伺います。徳地さんは日本人でありながら中國の資本市場の成長を內側から見つめ続け、それだけでなく“擔い手”としても大勢の中國人の同僚たちと共にかかわってきたというユニークな経歴をお持ちです。
父・末夫さんはかつてCRI(當時は「北京放送」として親しまれていた)に在籍する日本人専門家でした。父親の仕事の関係で、徳地さんは少年時代から青年期にかけて、1960年代から70年代までの13年間を家族と共に北京で過ごしました。末夫さんよりやや遅れて、1963年末に子ども三人を連れて北京にやってきた母・香縷子さん(1924年山形生まれ、現在95歳)は、渡航後は日本語教育を始めたばかりだった北京外國語學校(小學から高校)の教師として15年間日本語教育の仕事に攜わり、數百人の中國人學生を育てました。
1964年、中國へ向かう玄界丸の中で兄、姉と記念寫真(中央)(寫真提供:徳地立人さん)
1978年、北京放送の同僚が開いた徳地末夫さん、香縷子さんの送別會(二列目左から3人目が香縷子さん、4人目が末夫さん)
北京の教え子らによる徳地香縷子先生への思い出が綴られた本の表紙
1977年、25歳の誕生日の日に日本に本帰國した立人さんは、その後、日本の証券會社に入社。スタンフォード大學での留學やアメリカでの勤務を経て、世界を舞臺に活躍してきました。
一方、中國は1978年末から「改革開放」が始まり、1990年12月19日、上海証券取引所、1991年7月3日に、深セン証券取引所がそれぞれ正式に開業しました。
こうした時代の変化を背景に、2002年に、徳地さんは仕事のパートナーでもあった中國の友人に誘われて、中國政府係大手コングロマリットである中國中信集団公司(CITIC Group)傘下の中信証券に副社長として転職。中國の証券會社における外國籍経営陣メンバーの第一號でした。その後、2015年の定年までに13年間の人生を中信証券と共に歩んできました。中信証券は現在では中國を代表し、世界に羽ばたく金融會社となっていますが、徳地さんが入社したばかりの頃は創業からまだ7年も経たない中堅企業でした。徳地さんの在職期間は、中國の証券業や金融開放に大きな変化が起きた時期でもあります。
今回は徳地さんに「人間としての原點、中國への理解の原點」だった子ども時代の思い出から、中國の証券會社の経営陣として働いていた頃に実際に體験した中國のダイナミックな変化などをめぐってお話を伺います。
「CRIインタビュー」でしか聞けないお話がたくさんありますので、ぜひお聴き逃しのないように。そしてお聞きになってご意見やご感想などをnihao2180@cri.com.cn宛てにお寄せください。お待ちしております。
【プロフィール】
徳地 立人 (とくち たつひと)さん
清華大學公共管理學院産業発展と環境ガバナンスセンター(CIDEG)執行理事兼研究員(リサーチフェロー)
中國石油天然氣股份有限公司 社外取締役
1952年東京生まれ。1964年から1977年、北京で仕事をしていた父親と共に、一家で北京で13年間を過ごす。北京大學中國文學學科卒業、スタンフォード大學東アジア研究センターにて修士號を取得(中國経済)。
20數年日本の大和証券に勤務、主に米國、香港、北京、シンガポールなどで國際投資銀行業務に従事。2002年に、中國政府係大手コングロマリットである中國中信集団公司(CITIC Group)傘下の中信証券に副社長として入社。その後、マネージングディレクター兼投資銀行委員會主席、中信証券國際主席などを歴任し、2015年末、退任。
2009年、中國金融業界での功労が認められ、中國政府より“友誼賞”を受賞。
元國家外國専門家局諮問委員會外國専門家顧問委員。現在、トヨタ自動車、東京海上グループ、星野リゾートなど日本企業への中國関連のアドバイスも行っている。
主な著作:
『國有企業到境外上市公司』(主編)、『企業重組導論』(編集委員)など。
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