北京
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北京放送のリスナー歴約70年の神宮寺敬さん(甲府市在住)は、この2月23日で101歳のお誕生日を迎えました。北京放送のスタッフからは親しみを込めて、「おじさん」と呼ばれている神宮寺さんのところに、今年は誕生祝いに中國からたくさんの絵手紙が屆きました。
筆で描いた絵とお祝いの文字からなる、これらの手紙を描いた人は、中國の10都市にいる絵手紙愛好者の皆さんです。8歳の小學生もいれば、20代の博士課程在學中の學生や定年退職者もいます。
何故、これらの絵手紙が中國から神宮寺敬さんのところに送られていったのでしょうか。その中に込められた「まごころ」を掘り下げてみました。
<絵手紙の中國伝來>
今から約20年前の2000年頃に、蘇州在住の筆作り職人の倪頌霖さんは、自身の筆を愛用していた日本絵手紙協會の関係者を通して、絵手紙の存在を知りました。
倪さんは、「絵手紙から中國畫の姿を見出すことができるため、親しみを覚える」と話し、絵の上手か下手かよりも「心の贈り物」であるという理念に心打たれて、中國でもそれを広めようと決心しました。
倪さんの活動は、當時の蘇州市外事弁公室の責任者である談工皎主任の賛同を得て、蘇州市內の一部の小中學校でも絵手紙を教育の一貫として導入されて、実を結びました。その成果の一つとして、中日國交正常化30週年にあたる2008年に、蘇州市と日本絵手紙協會の共同企畫として、「中日絵手紙10萬通合同展」が開催されるまでになりました。
中國から日本絵手紙協會小池邦夫會長とのやり取り
今は自らが立ち上げた蘇州市絵手紙協會の會長を務める倪さんは、「絵手紙は、中國の伝統的な筆と墨を使って、國境と時代を跨いだ効果的な交流ツールとして蘇州で幅広く受け入れられた」ことを大変喜んでいました。
日本伝來の絵手紙は、蘇州の都市の歴史に忘れがたい足跡も殘しました。2003年6月、蘇州で開かれる予定だった第27回世界遺産委員會が感染症SARSの影響で、急遽パリに移しての開催となりました。
「蘇州にもう一回チャンスをください」という願いを世界にPRしたのは、蘇州の子どもたちが描いた絵手紙でした。パリ會場に送られた1750枚の絵手紙は、世界から訪れた500人の代表らに蘇州の気持ちを伝える最高のお土産となりました。絵手紙に込めた思いが実り、翌年、第28回世界遺産委員會が蘇州で無事開催されました。
<101歳の神宮寺敬さんに絵手紙で「おめでとう」>
蘇州を拠點に中國各地に広まった、絵手紙を送る動きの主な擔い手は、主として、蘇州市絵手紙協會、そして、同協會と友好関係にある「スケッチ中國」という美術愛好者の団體です。Wechat上のグループチャットでは、メンバーたちは季節の変わり目ごとに絵手紙を送り合い、24節気にまつわる絵手紙企畫も行ってきました。
40年前に、神宮寺さんの家で下宿した田紅さんもメンバーの一人です。1986年から毎年のように、秋の稲刈りが終わった後に、必ず家族とともに中國を訪れる神宮寺おじさんが、コロナ禍で中國に渡航できないことを殘念がっていることを聞きつけ、仲間の皆さんに神宮寺敬さんのことを文章と寫真で紹介し、「中日友好をラーフワークとして取り組み続けてきた神宮寺おじさんに、誕生祝の絵手紙でも描きませんか」と呼びかけました。その結果、國內の10都市とスイス在住の仲間たちが、18通の絵手紙を書き上げました。以下がその一部の寫真です。
「絵手紙は素樸ではありますが、心から発する真心です」と田さんは言い、何でもスピードが重んじられる現代社會において、ゆったりと思いを伝える伝統的なツールの大事さを強調しました。
対面したことがないにもかかわらず、多くの仲間が呼応してくれたのは、「神宮寺おじさんの中日友好を思い続ける思いとその精神に心打たれたからだと思う」と話しました。
なお、これらの絵手紙は、舊正月春節期間中の中國から、郵便で送る場合の遅延を考え、まずは電子版にして送信し、原本は改めて郵便で屆けることになっています。
【番外編】
<神宮寺敬さんとはどんな人?>
中國からの絵手紙に返事を送る神宮寺さん(2021年2月撮影)
山梨県甲府市。武田神社から要害山(ようがいさん)に向かって、徒歩10分ほど歩くと、富士山が一望できる下積翠寺町につきます。バス停「神宮寺」を降りれば、目の前が神宮寺敬さんの自宅になります。
1920年2月23日、養蠶農家の次男としてここに生まれた神宮寺敬さんは、日本では今は殘りわずかとなる戦爭體験者世代です。総力戦體制の下、通信會社の會社員だった敬さんも徴兵され兵隊となりました。後に通信兵として、中國や東南アジアでの侵略戦爭の戦場に行き、敗戦は上海で迎えました。
その後、自ら組み立てたラジオで海外からの日本語放送を聞くようになり、日本が中國で行った戦爭が侵略戦爭だったと気づきました。新中國成立間もない頃の1950年代初めから、敬さんと奧様の綾子さんが日本語月刊誌「人民中國」を購読し、北京放送を聞きはじめました。1966年、「人民中國」社の招待で戦後にして初めて中國を訪問し、その時、北京の宿泊先である民族飯店のまごころのこもった接客に感動し、また、両國の平和と友好を心から願っている多くの中國人に接したことで、日中友好と平和増進をライフワークにしようと決意しました。
1970年代後半、中國が改革開放され、山梨大學に國費留學生が派遣されたばかりの頃、神宮寺さんと奧様は真っ先に自宅を改築して、中國人留學生に下宿先として自宅を提供しました。1986年、北京放送を訪ねた時、當時の中國では海外渡航が自由にできなかったため、多くの若手アナウンサーは、日本に行ったことがないまま、マイクに向かっていました。それを聞き、神宮寺さんは帰國後、ローカルのテレビ山梨(UTY)に北京からのアナウンサーを受け入れ、アナウンス訓練のチャンスを提供するよう働きかけました。それがきっかけで、「仕事はテレビ山梨、生活は我が家」という敬さん一家の好意で、北京放送の多くの若手アナウンサーが訪日研修を受けるチャンスに恵まれ、神宮寺家でお世話になりました。
神宮寺敬さんは1986年以降、毎年のように、秋の稲刈りが終わった後に家族を連れて、友人たちと「一期一會の約束を果たす」ために、北京を訪れています。
自ら撮影した神宮寺さんの寫真でつくった誕生日カードも(撮影&製作:閻彤)
ところで、101歳の誕生日を元気に迎えた神宮寺さんは、この日をどのように過ごしたのでしょうか。なんと、朝早くから囲碁のトーナメント戦に出かけていたそうです。中國からたくさん送られてきた絵手紙について、「力強い字で描かれていて、皆からの『おめでとう』に本當にありがとう。また皆と會いに中國に行きたくなりました」としっかりとした聲で感想を述べました。そして、健康長壽の秘訣について尋ねると、「好きな事を言い、好きな物を食べる」ことでした。
101歳になった神宮寺さんの聲、そして、中國の関係者の思いを伝える聲は番組でお聞きいただけます。
(取材&記事:王小燕、寫真提供:速寫中國、蘇州市畫信協會、田紅、閻彤)
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