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中日國交正常化の源流をたどる~西園寺一晃さんに聞く①

2017-10-17 15:53:18     cri    


 中日國交正常化45週年記念にちなんだ特別企畫をお送りします。ゲストは、1950年代末から「民間大使」として招聘された父・西園寺公一氏と共に、青少年時代の約10年間を中國で過ごした西園寺一晃さんです。

 1956年、新中國と日本との関係をめぐり、一連の良い機運が起こりました。まず、10月に日本とソビエト連邦が「日ソ共同宣言」により國交正常化を実現し、東西対立の冷戦構造に穴をあける動きとなりました。続いて、12月23日に、中華人民共和國を含む共産主義國との國交正常化を主張する石橋湛山內閣が日本で誕生しました。

 こうした中、國交正常化の政府間交渉に向け、事前準備のため適任者に北京に來てもらいたい…。それが中國側の望みでした。その相談を受けたのが、當時、國際組織「世界平和評議會」のジュネーブ事務局にいた西園寺公一さんでした。人選に関して、中國側代表の寥承志氏から挙げられた條件は、「①左側と右側の両方に友人がいて、顔が広い者 ②中國に友好的な感情を持っている者 ③私利私欲のない者」というものでした。

 相談を受けた西園寺さんは日本に戻り、様點な人と話をしましたが、そこで皆が口をそろえて言ったのが、「西園寺さんが行くのが良い」という意見でした。

 ところが、當時わずかに表れた國交正常化の機運は、そう長くは続きませんでした。石橋內閣はわずか2か月で終焉し、その後に発足した岸信介內閣は蔣介石政権の大陸反攻政策に支持表明をした保守政権でした。

 「梯子が外された思いでした」と一晃さんは振り返ります。それでも、西園寺公一さんは中日國交正常化を世界平和運動の一環としてとらえ、中國行きの準備を進めていました。

 「きちんと腰を落ち著けてやるために、家族と一緒に行きたい」というのが中國側に出した要望でした。

 東京の自宅での家族會議でお父様が話されたことについて、當時16歳だった長男の一晃さんは「良く理解はできなかったが、鮮明に覚えている」と言います。

 その言葉とは、「これから中國という國は大変大きな存在になる。そういう中國に行って、たくさん友達をつくって勉強して、それが必ず將來役に立つ。だから、一緒に行かないか」でした。

 今回もこのコーナーでしか聞けない秘話がたくさんあります。詳しくはぜひ番組をお聞きください。

 【プロフィール】

 西園寺 一晃(さいおんじ かずてる)さん

 1942年、西園寺公一氏の長男として東京都に生まれる。

 1958年、一家で中國に移住し、10年間北京市で過ごす。

 1967年、北京大學経済學部政治経済科卒業。同年、日本に帰國後、朝日新聞社に入社。同社調查研究室に勤務し、中日友好事業に長年攜わる。

 日本中國友好協會全國本部副理事長、參與、東京都日中友好協會副會長、工學院大學孔子學院學院長などを経て、現在は東京都日中友好協會顧問、東日本國際大學客員教授、北京大學客員教授、中國伝媒大學客員教授。

 父の西園寺公一氏は參議院議員を務めた日本の政治家で、1958年に日中文化交流協會理事、アジア太平洋平和理事會副理事長に就任。中日國交正常化前の中日民間外交の先駆者であり、民間大使と呼ばれた。中國在住時(1958-1970年)には毛沢東主席、周恩來総理と親交を結んだ。

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