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中日國交正常化の源流をたどる~西園寺一晃さんに聞く②

2017-11-07 19:12:22     cri    

 聞き手:王小燕

 前回に引き続いて、若き頃の約10年間を中國北京で過ごした西園寺一晃さんにお話を伺います。前回は1950年代末に、一晃さんの父親・西園寺公一氏が周恩來総理から「民間大使」として招聘された背景や、當時の世界情勢における中日関係などをめぐり、お話を伺いましたが、今回は一晃さんの北京での実體験を伺います。

 1958年1月、氷點下10度の北京駅に、西園寺さん家族は降り立ちます。一家4人の約10年間にわたる北京暮らしが、そこから始まりました。父親の意志で、一晃さん兄弟は中國人が通う學校の普通のクラスに転入しました。中國語が自由に使えるようになるまでに1年はかかりましたが、その間、學校は優秀な學生サポーターを付けて対応してくれました。「負けず嫌い」の一晃さんは意地を見せ、「數學や化學などではなく、中國語で書く作文の授業で、皆に劣らない點數を取りたい」と考え、それに向けての奮闘を始めます……。

 北京暮らしを振り返ると、一晃さんにとって忘れられないご夫婦がいるそうです。それは周恩來総理と鄧穎超夫人です。1958年半ば過ぎ、一家4人は招待を受け、周恩來総理と夫人が住む中南海・西花庁を訪れました。

 「西花庁は中國式の優雅な佇まいです。門衛がいて、応接間、執務室があって、後ろに宿舎があります。偉い人の住まいなので、きっと豪華な部屋だと思っていましたが、たいへん質素でした。ソファーカバーはきれいに洗ってありますが、継ぎを當てられていました。周総理を待っている間、にこにことお茶を持ってきてくれたおばさんがいました。さすがに周総理のところの『服務員さん』で、感じがとても良い方だなと思いました。しばらくしてから、周総理が現れましたが、洗いざらしの粗末な服を召していました。自己紹介を済ますと、今度はその『服務員さん』の肩を抱いて、紹介してくれました…」

 エピソードの數點が、まるで昨日のことのように鮮やかです。新中國の総理と身近に接して感じたことは、歴史の教科書では書かれない生き生きとしたものでした。

 ところで、西園寺さん一家が北京入りした1958年、中國は社會主義の國家建設運動が盛んに行われている最中でした。翌年の建國10週年に備えて、首都北京では「十大建築」の建設が急ピッチで進められていました。その中の一つであった人民大會堂も、市民を総動員した成果が実り、わずか10か月ほどで竣工しました。當時高校生だった一晃さんもなんと、同級生と一緒にレンガを運んでいたのでした。

 「當時の中國人は、やっと自分の國を取り戻したので、國家建設に燃えていました。今思えば急ぎ過ぎる部分もあったが、みなとても純粋でした。あの頃の中國は貧しかったけれど、精神は貧しくはありませんでした。今は大変豊かになったが故に、ごく一部の人ではありますが、精神が貧しくなったように思えます。しかし、中國は必ずや物質面と精神面の両面で豊かになれるだろうと信じています」

 若き頃に中國で過ごした10年を振り返り、「まったく悔いはない。學ぶことばかりでした。いまだに親交があるたくさんの友達ができたこと、これこそが最大の財産なのです」。

 今回もこのインタビューでしか聞けないエピソードが盛りだくさんです。

【プロフィール】

西園寺 一晃(さいおんじ かずてる)さん

1942年、西園寺公一氏の長男として東京都に生まれる。

1958年、一家で中國に移住し、10年間北京市で過ごす。

1967年、北京大學経済學部政治経済科卒業。同年、日本に帰國後、朝日新聞社に入社。同社調查研究室に勤務し、中日友好事業に長年攜わる。

日本中國友好協會全國本部副理事長、參與、東京都日中友好協會副會長、工學院大學孔子學院學院長などを経て、現在は東京都日中友好協會顧問、東日本國際大學客員教授、北京大學客員教授、中國伝媒大學客員教授。

父の西園寺公一氏は參議院議員を務めた日本の政治家で、1958年に日中文化交流協會理事、アジア太平洋平和理事會副理事長に就任。中日國交正常化前の中日民間外交の先駆者であり、民間大使と呼ばれた。中國在住時(1958-1970年)には毛沢東主席、周恩來総理と親交を結んだ。

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