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秦の始皇帝陵と兵馬俑(三)

2015-06-23 19:13:17     cri    

 秦の始皇帝は生前中國を統一した偉大な皇帝です。死後にも、生前に持っていた物をすべて地下に持ち込み、これまでにない豪華な陵墓を建てました。60平方キロに及ぶ始皇帝の冥土は、始皇帝がいた都ー鹹陽を真似して作られたのですが、內の城壁、內城と外の城壁、外城もあり、域內にはたくさんの副葬坑があります。これまで、本當の意味の考古発掘は行われていませんけど、実験的な探測によって、すでに大きな発見がありました。

 兵馬俑は地下におよそ2000體ぐらい埋葬されたあと、前世紀の1974年にやっと発見されたそうです。実は「やっと発見した」という言い方は正しくないかもしれません。昔もきっと発見したことがあったのでしょうが、ただ発掘をしなかったといったほうが正しいでしょう。兵馬俑を発掘した際に、漢の時代から近世までの貴族や庶民のお墓も、その範囲內に見つかったそうですので、きっと昔にも兵馬俑を掘り出した人がいるかもしれません。

 とにかく、膨大な兵馬俑の軍団は大きな破壊にあうことなく、そのまま、1974年まで保存されてきたのです。1974年3月に地元の農民が井戸を掘った時、偶然にいくつかの陶俑の破片が目に入りましたが、それがなんなのかは分からなかったそうです。それで、すぐに地元の関係部門に報告したそうです。これをきっかけに、その後、考古學者が一年間余りかけて実地調查や試掘をした結果、そこに大きな兵馬俑の坑井があることを確認しました。

 今、私たちが兵馬俑博物館に入ると、全部で三箇所が見學できます。一號館、二號館と三號館。この1974年に発見されたのは、1號兵馬俑坑です。この1號兵馬俑坑が発見された後、考古學者は引き続きその周辺で実地調查を行いましたが、1976年4月に1號俑坑に近い東北部分、また2號兵馬俑坑が発見されました。これに引き続き、1976年5月にさらに、1號俑坑の西北方向に3號兵馬俑坑を発見しました。さらに、1976年の夏、埋葬された當時に、まだ完成されていなかった4號坑も発見されました。その內部には何の遺物もなかったのです。なんでも、秦の末期、農民蜂起があったため、工事中の4號兵馬俑坑はやむを得ず中止になったそうです。それから、秦は急速に衰え、秦二世は結局父親の陵墓工事を続ける力もなかったそうです。

 1號兵馬俑坑は三分の一ぐらい発掘しましたが、これまで、あわせて1087體の陶製俑を復元しました。さらにその密度から推計しますと、おそらく1號坑には6000體を超える俑があるはずです。2號坑もその密度から推計して、およそ1300體ぐらいの俑があります。また、3號坑は面積が小さいため、すべて発掘しましたが、38體の陶製俑が出土しました。ですから、三つの兵馬俑坑には合わせておよそ8000體ぐらいがあると推測されています。

 中國古代の軍隊編成によって、1號坑は右軍、2號坑は左軍、完成されていなかった4號坑は中軍、そして、3號坑は指揮部、というように軍隊が形付けられました。これによって、秦始皇生前に都を守衛した軍隊を再現したのです。

 資料によりますと、當時、工事をしたとき、まずは、地下約5メートルに、大きな穴を掘って、穴の中に並行に隔離壁を建てます。その壁の両側にぎっしりと木の柱が並んでいるほか、壁の上のほうにも橫木が置かれています。その橫木の上には、さらに、筵(むしろ)をかぶせています。穴の底にレンガが敷いてあります。最後に、兵馬俑を入れてから、通路を封鎖して、これで完成です。

 今、私たちが見たのは、上にあった土を掘り出したあとの風景です。兵馬俑坑周りの通路を歩くと、まさに、古代の軍隊を眺めているような感じがします。

 兵馬俑博物館は1979年10月に設立され、発掘しながら開放という形で一般に公開されています。ですから、訪れる人の目には膨大な兵馬俑軍団が見えるだけでなく、考古発掘の作業風景も垣間見られます。

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